日記

2007年06月06日
日焼け日記

この前の日曜日に潮干狩りをしに、海浜公園に行った。
とても天気が良かったのだが、とても太陽の光が眩しく感じられた。
あさりを取っていた時は良かったのだが、家に帰るなり太ももから下がとても痛い。
ズボンをめくって見ると、皮膚の色が小麦色ではなく、真っ赤であった。しかも、痛い。
以前は、日焼けをしても全然平気だったのに、今回は違った。
痛いのだ。かなり。お風呂でも入ろうものなら、激痛でお風呂につかっていられないだろう。
 しかし、話しを急に変えてしまうが、日記本当に久し振りである。
今まで、実は充電をしていたのだ。「筋トレ」をしたりもしていたが…。
 ええい、日記の話しを書こう。
結局、皮膚科に行って、患部にかけるスプレーの薬をもらった。最近は、痛みはだいぶ収まってきた。でも、まだお風呂には入れない。おなかに力を入れると、痛んだりする時もある。日焼けをもっと楽しみたかった。「焼けたね」「うん。海に行ってきたんだ」という会話でもしたかった。話しがまた変わってしまうが、隣の部屋のテレビの音がとても大きく、気が散ってきた。久々の日記ここら辺にしようかと思う。
2007年05月04日
強さ日記

 どういう訳か、昔の私の友達には格闘技をやっている人が多かった。格闘技は確かに自分に自信がつくと聞いたことがある。それと最近、世の中が物騒なので、習っていた方が習っていないよりも、良いのかと思う時もある。
 しかし、本当に格闘技をやって強くなれるのだろうか?格闘技をやることで、自信がつき、精神的に強くなれるのだろうか?確かに、格闘技をやっている人=「たくましくて強い」イメージがある。
 でも、本当の強さって何だろう。窮地に立たされても、立ち向かう姿勢や、境遇が悪くても生き抜いて行く力が、本当の強さではないかと私は思う。
 格闘技をやる事は、私は否定しない。しかし、精神力をつけたいなら、他の方法もあると思っているのだ。昔の友達は、格闘技をやっていたが、むしろ自分に自信の無い人が多かった。自分の生き方を確立して、前向きに生き、しっかりとした自分を持つ事ができる人が、本当に強い人なのではないかと私は思う。
                         
2007年04月18日
打撲日記

今まで、捻挫、突き指、打撲を経験したことがある。捻挫は小学生の時に跳び箱で、高校の時に通学途中に足首を捻って。突き指は小学生の時に何回もやった。そして、高校でも、体育のラグビーの時間に楕円形のボールに目測を誤り、突き指をした。打撲は数え切れないほどやった。詳しくは、あまり覚えていない。
 最近、打撲をした。仕事中に、そばに置いてあった台車が倒れてきたのだ。現在、湿布を貼っている。お風呂は控え目にして、体を洗うのはシャワーで済ませている。高校時代の友人によると、アイシングが効果があるという。アイシングとは、怪我をした時にすぐに、ビニール袋などに氷を入れて、怪我した部位を冷やすのだそうだ。これは、かなり効き目があるそうだ。
 でも、打撲は骨折と違って時間がたてば治る。よって、打撲はかなり軽い怪我の方であると私は思う。怪我は突然するものである。何かの拍子に怪我はするものである。一説によると疲れていると、怪我をしやすいと聞いた事がある。でも、人間はめったに怪我はしないので、安心して良いと思うし、私もそう思いたい。
                      
2007年04月08日
エ○グラム日記

最近、パソコンのサイトでハマってはいけないサイトにハマっている。それは、アダルトサイトではなく、エ○グラムというサイトである。何回かやってみたが、どの回も「比較的優秀」という診断結果が多い。しかし、時々あまり嬉しくない診断結果も出る。「常に悩んだ状態」、「単純なタイプではない」など。確かに、ある人に「悩み多き男」と言われた事があるが、そう悩んでばかりでもない自分も自分では認識している。よって、私の一面は捉えてはいるものの、やはり50問の質問だけで、人間をタイプ分けするのには限界があるようだ。
 診断、占い系のサイトは確かに面白いが、自分をしっかり持たないと自分を見失ってしまうおそれがある。『ラー○ン占い』、『サッ○ー占い』などは、確かに面白い。しかし、そういう占いをやる動機は「自分は一体何者か?」という問いに、常に関係してくる。「自分は一体何者か?」という問いは、おそらく、幾ら診断をやっても判るものではないと私は思う。
 1つは、自分を認め、自分を信じることが重要であると思う。そして、もう1つ重要だと思うのは、自分をしっかり持つということではないだろうか。言い換えれば、自分の哲学をしっかりと持つことではないであろうか?
 すぐに、自分の哲学は身につかないし、若いのに括弧とした哲学を持っていたら、ちょっとびっくりしてしまう。でも、「しっかりとした哲学を持っていれば、悩みや迷いの多い人生が少し楽になるのでは」と私は思っている。
                           
2007年03月01日
自然日記

今日の夕方はとても夕日がキレイだった。それは、赤く、鮮やかで、希望に満ち溢れていた。自分なんかは到底かなわない、とても大きなスケールを感じた。
 それは、僕の涙腺までを刺激した。あまりの夕日の偉大さに、涙が頬を伝わったのだ。
日々の自分の悩みのあまりのスケールの小ささに比べ、夕日の持つスケールの大きさはどうだろうか。辺りに色を付けてくれる夕日の偉大さよ。
 僕もなりたい、憂いも怒りも、何もかもを包み込む夕日のように。そう、そんな気持ちになれたら、争いごとは減るのかな?そんな気持ちになれたら、幸せを今よりも多く感じられるのかな。そんな気持ちになれたら、笑顔が絶えない日々が、楽しい家庭が作れるのかな?ふと、そんなことを考えてみた。
 明日が晴れだって教えてくれる、とても大きな夕日。生きる活力と、自然の大らかさを教えてくれる夕日。いつかある小説で観た、流氷の上を照らす夕日。その情景は白い流氷を赤く変化させる。そうすると海は真っ赤だ。生きている内に1回は観ておきたい情景だ。夕日よ、これからも僕らを映し出して自然の素晴らしさ、偉大さを教えておくれ!
                         


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